ソウルを訪れる観光客にも散策コースとして人気の清渓川は、一度埋め立てられ、2005年に新たに復元された川です。清渓川板子家体験館(バラックテーマゾーン)は、1960~70年代の清渓川埋め立て工事中、沿道に建てられていたバラックを再現した展示館。清渓川博物館の目の前、清渓川を背にして建てられており、当時の庶民の生活、文化、歴史を知ることができる。
パンジャッチッ
판잣집=漢字で書くと「板子家」。板で四方を囲って一時的に建てた小屋や、貧しい家のこと。ほったて小屋、バラック。
日帝の植民地支配と6.25戦争後の清渓川
1910年~1945年 日帝の植民地支配を受けた時代、清渓川の別名は「都市の癌」堤防道路は「殺人道路」だった。光復(植民地支配からの解放)後、日本や満州、北からの避難民たちが移住し始め、都市部の人口は爆発的に増えた。植民地からの解放後、1950~1953年の6.25戦争(韓国戦争)を経験し、清渓川一帯には無許可のバラックやテントが雑然と建てられ、貧しさゆえのスラムになった。
都市の人口増加と産業化、生活様式の変化により汚染が深刻化した清渓川は、ソウルの発展のためにも埋め立て工事が必要だった。清渓川の埋め立て工事は1958年から1977年の20年以上に及んだ。
1960~70年代 清渓川沿道の暮らし
思い出の教室
雑貨屋
実際に使われていた看板やアイスクリーム販売冷蔵庫などもある。雑貨屋と駄菓子屋を足して2で割ったようなかんじ。
学生の勉強部屋
学生服の試着体験
学生服は無料で試着できます。サイズも揃っていて、更衣室も用意されています。
韓国の「文化開放」
日本大衆文化開放
1965年、韓国と日本は国交が正常化されましたが、韓国は1998年10月まで、日本の大衆文化の国内への流入を防いできました。大衆文化とは、映画、雑誌、音楽や漫画、テレビゲームなど。一番大きな理由は過去の日帝の植民地支配の記憶が残っていたことだといえます。
日帝強占期、日帝は朝鮮の民に母国語の使用を禁止し、名前を日本式の名前に変えさせ(創氏改名)、国内の新聞や雑誌を廃刊させ、天皇を神とし神社への参拝を義務付けました。文字通り国を抹殺する政策で、朝鮮の文化を消そうとしたのです。1945年の光復(植民地支配からの解放)から20年後、国交が正常化されたからといって、日本の文化に対する拒否感をぬぐいきれないことは当然のことでした。
1998年10月の韓日両国首脳間の「韓日パートナーシップ共同宣言」以降、段階的に日本の大衆文化が解放されていきました。文化開放は、多くの国民が金大中元大統領の業績として好意的に受け止めています。
現代のようにインターネットが身近にない時代でした。文化開放から20年と少ししかたっていないことを意外に思う人は多いかと思います。その後、2000年頃から韓国映画やドラマが日本市場へ進出し、第一次韓流ブームへつながっていきました。
茶房(喫茶店)
ミュージックボックスとは、お客さんのリクエストでレコードをかけ、あわせてDJが曲の解説などをしてくれるという、昔の娯楽施設(喫茶店)。コインを入れて好きな音楽を選べるジュークボックスより前の時代です。
漫画部屋
韓国の「漫画部屋」はレンタル、または読書ができる部屋がある娯楽施設のこと。
日本では60~70年代の雰囲気に「レトロ」という言葉を使いますが、韓国では「アナログ時代」といいます。
清渓川板子家博物館は、清渓川博物館の目の前です。アナログ時代の雰囲気が好きな人におすすめのスポットです。
Address
서울 성동구 청계천로 530
530 Cheonggyecheon-ro, Seongdong-gu, Seoul
営業時間:10時~20時まで(毎週月曜日休館)
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清渓川(チョンゲチョン)博物館
清渓川(チョンゲチョン)はソウルの中心地を流れる10.84kmの小さな河川。清渓川博物館はソウルの東側の城東(ソンドン)区にあり、清渓川がすぐ前を流れる場所に位置しています。常設展示、企画展示ともに、 ...