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清渓川(チョンゲチョン)博物館

投稿日:2019年9月2日 更新日:

清渓川(チョンゲチョン)はソウルの中心地を流れる10.84kmの小さな河川。清渓川博物館はソウルの東側の城東(ソンドン)区にあり、清渓川がすぐ前を流れる場所に位置しています。常設展示、企画展示ともに、清渓川の歴史や未来に関する展示が行われています。

清渓川博物外観

地上4階、地下2階の1728坪規模。大きくて全景が撮れない

建物の外側につかわれているガラスの形は、清渓川の流れを象徴しているとのこと。入口は4階にあるので、まず長~いエスカレーターに乗り4階へ。館内は全体がゆるやかなスロープになっていて、展示をみながら階段を使わずに、自然と1階まで降りていくことができます。

清渓川博物館 館内

緩やかな坂になっている館内。歴史の遺物や映像などを駆使した展示。4階部分の床は朝鮮時代の地図

清渓川の歴史が4つの時期、テーマ別に展示されています。

1部 開川時代

1394年 漢陽(ハニャン)(現在のソウル)が朝鮮王朝の都になってから600年余り、ソウルはあらゆる面で韓半島の中心にあった。

清渓川博物館展示物。朝鮮時代の清渓川

朝鮮時代の地図。下方に開川(現在の清渓川)

清渓川は、朝鮮王朝時代から、漢陽都城(ハニャントソン)(王が住む城)の内外を東西に横切っていた。ソウルは風水地理学の立場から見ると、ほぼ完璧な場所だといわれる。風水で家や墓地として使うのに非常に良いとされる場所を明堂(ミョンダン)といい、清渓川は明堂水でもあった。しかし漢陽(ソウル)は山に囲まれ、集中豪雨の多い地域であり、また砂の河川であったため度々氾濫した。そこで盛り土をし、河川を掘り起こし水流を多くし、自然河川を開川した。

都市の生活の中にあった開川。周囲の景観や立地の特性が異なるため、住民や地域の文化も地域ごとに異なる特性を持ち、それぞれの地域を区分する名前としても使われた。

漢陽の生活空間

上村→詩人や文学活動をしていた画家などが多く住んだ
中村→官庁が密集していた場所で、商業が発達し、民の暮らしを支えた活気ある市場だった。両班(ヤンバン)文化と区別される中人文化が生まれ、朝鮮後期には開花運動の中心地になった
下村→軍兵や商人が住み、野菜などの取引が活発に行われた

清渓川博物館展示物

韓方薬を作る道具や治療のための針を入れる容器など

清渓川博物館展示物

朝鮮時代後期の履きものとノリゲ(装身具)

2部 清渓川、清渓路

日帝強占期の都市計画と、1945年の光復と韓国戦争を経て、清渓川沿道にスラムが形成された当時の歴史的背景を知ることができる。

日帝強占期の清渓川

1914年ごろ、開川は「澄んだ渓谷の水」という意味で清渓川(チョンゲチョン)という名になった。しかし、清渓川の水質は日に日に汚濁していった。

日帝強占期の清渓川の別名は「都市の癌種」堤防道路は「殺人道路」だった。都市の人口増加と産業化、生活様式の変化により清渓川の水質は急激に悪くなり、名節(韓国の正月や秋夕)時期ごとに行われていた川べりの民俗遊びは、跡形も無く消え去った。清渓川を埋めよう(覆蓋)という市民の要求は激しさを増していたが、日帝当局はこれを黙殺した。清渓川を覆うことにより「都市の癌種」を根本的に取り除こうという構想は、1936年京城府城が拡大されたあとにようやく出てきた。しかしすべての財源が侵略戦争に注ぎ込まれていた状況で、そのような構想はただ虚しい夢に過ぎなかった。

引用:清渓川博物館 展示

日帝強占期、清渓川は南側と北側を社会的に区分する境界線であり、民族差別の象徴だった。

清渓川博物館 日帝強占期の清渓川

日本人が多く住んだ南村の行政区域「マチ(町)」百貨店も建てられた

清渓川博物館 日帝強占期の清渓川

朝鮮の民が住んだ北村「」質素な建物で南側と全く異なる

1945年 植民地からの解放(光複)と6.25戦争後のソウル

清渓川博物館展示 光復後の人口増加グラフ

1946年 左は韓半島各道の人口の円グラフ。右は人口密度を世界各国と比較したもの

清渓川博物館展示 光復後の人口調査ポスター

1948年 南韓単独政府が樹立された。1949年 第一回総人口調査の協力を求める広報ポスター

清渓川博物館展示 清渓川周辺のスラム

日帝の植民地支配と、6.25戦争を経験した清渓川の周辺地域は、1950年代半ば、貧しさによるスラムだった。清渓川は汚染が進行し、伝染病の温床となっていた。当時の経済状況の中で、近代化をさまたげる清渓川の問題を解決する唯一の方法は、川を埋め立てる覆蓋工事だった。

清渓川博物館展示 清渓川周辺のスラム

清渓川博物館展示 清渓川周辺のスラム

1970年代 バラックが立ち並ぶ。今の清渓川からは想像もできない風景

1958年からソウル市民の念願だった清渓川本流覆蓋工事が本格的に始まり、全区間が覆われたのは1977年。20年以上にわたる長期間の工事で清渓川は清渓路(チョンギェロ)になり、その上には高架道路が建設された。高架道路は、道路沿いに建てられた31ビルディング(1970年当時韓国で一番高いビル)とともに、長い間ソウルの発展の象徴であり、韓国近代化の象徴的な役割を担った。

清渓川博物館展示物。平和市場の模型

道路の両脇には商店街や工場がたち韓国の産業化を先導した

清渓川博物館展示物。平和市場の模型

東大門の平和市場の模型

清渓川の覆蓋工事をはじめ、新たに誕生した清渓路に沿って立ち並ぶ商店街の発展を、模型や写真などの資料から知ることができる。

3部 清渓川復元事業

1990年代後半、成長や再開発の代わりに、生態環境や、朝鮮時代の歴史文化を回復させようという提案が登場した。ソウルの都心を貫く清渓川覆蓋道路と、その上を走る高架道路は老朽化が進み、全面的な補修が急がれていた。 多額の予算をかけ維持することより、これらを撤去し、消えた清渓川を蘇らせるという公約を掲げた李明博(イミョンバク)(その後大統領)候補がソウル市長に当選した。

清渓川博物館展示 清渓川復元工事

河川の復元

清渓川博物館展示 清渓川復元工事

道路と橋梁

清渓川復元工事の出土物

清渓川復元工事の際に出土した遺物

4部 復元後の10年

清渓川復元工事は、2003年7月から2005年9月まで行われた。清渓路を清渓川に、22の橋を設置するなど大きな変化を遂げた。清渓川博物館は、清渓川復元工事が終わった年の2005年9月26日に開館した。

清渓川博物館展示

清渓川工事が終了し祝祭の通水式に使われた水槽。映像には李明博ソウル市長と当時の盧武鉉(ノムヒョン)大統領の姿

大々的な工事を終え、ソウル市民の憩いの場として生活に定着してきたこれまでの10年間の変化と、これからの清渓川(チョンゲチョン)の未来像を、展示や映像を通して知ることができる。

清渓川博物館展示。清渓川のこれまでの10年と未来

清渓川が朝鮮時代からソウルを流れ、一度埋め立てられ、また復元されて12年ほどしかたっていないという歴史を知りませんでした。現在の清渓川は、ソウル市民の普段の散歩道であり、デートスポットとしても人気の身近な場所です。有名なランタンフェスティバルやさまざまなイベントが催され、ソウルを代表する名所として観光客からも親しまれています。

鐘路区付近の清渓川

鐘路区付近の清渓川

韓国には清渓川のように散歩道がきれいに整備され、気軽に川沿いを散策できる川がとても多いです。清渓川は鐘路や東大門地区など人気の観光地の中を流れています。

気軽に立ち寄ってみてね。アンニョン~
テヒ

Address

서울시 성동구 청계천로 530
530 Cheonggyecheon-ro, Seongdong-gu, Seoul
清渓川(チョンゲチョン)バラックテーマゾーン外観
日本大衆文化開放と清渓川バラック(板子家)体験館

ソウルを訪れる観光客にも散策コースとして人気の清渓川(チョンゲチョン)は、一度埋め立てられ、2005年に新たに復元された川です。清渓川(チョンゲチョン)板子家(パンジャッチッ)体験館(バラックテーマゾ ...

清渓川博物館 企画展示「平和市場」
清渓川博物館 企画展 平和市場(ピョンファシジャン)

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