東大門ファッションタウン 平和市場
東大門ファッションタウンの平和市場は、清渓川覆蓋工事の際に建設された高架道路に沿い、約600メートルにわたって伸びた3階建ての建物。
日帝の植民地支配と6.25戦争(韓国戦争)を経験し、1950年代半ば、清渓川の周辺地域は貧しさによりスラムになっていた。清渓川は汚染が進行し、ソウルの近代化には、清渓川を埋め立てる覆蓋工事が必要だった。(その後、2003~2005年の復元工事を経て、清渓川は現在の姿になった)清渓川博物館の企画展示「平和市場」では、埋め立てられた清渓川の高架道路にできた平和市場の始まりと、これまでの変化の様子を展示している。
メイドイン清渓川(チョンゲチョン)、平和市場の誕生
6.25戦争(韓国戦争)後、清渓川周辺には無許可の住宅や露店が増え続けた。バラックの店舗で商売をしていた人たちが、1953年に平和市場商友会を設立した。ハコバンと呼ばれる小さな小屋で、ミシン1~2台で服を作ったり、米軍の服を修理や染色し、販売したのが始まりだった。
ハコバンとは
하꼬방の語源は、箱を意味する日本語の「箱」+韓国語の部屋を意味する「房」で、非常に狭い部屋や小屋、規模の小さい放送局などをさす言葉
3階建ての平和市場 | |
3階 | 工場(屋根裏) |
2階 | 工場 |
1階 | 店舗 |
①1階で企画→②2階で裁断→③3階で裁縫→④2階でアイロンがけと最後の仕上げ→⑤1階で販売という流れ |
韓国では、1950年代後半から、外国産より低価格の、ミシンの国産化が進んでいた。当時のミシンの販売方式は、割賦販売が一般的だった。ミシンを割賦で購入する場合利子がつき、少なくとも15%、多い場合は30%と高額だったが、飛ぶように売れた。
引用:清渓川博物館 企画展 「平和市場」
1960年代後半、平和市場には800余りの縫製工場が密集していた。平和市場が早く成長したのは、近くにある広蔵市場で衣料の製作に必要な材料を安く仕入れることができたこと、また、都心地のため、販売と運送が容易だったことが挙げられる。
展示にはありませんが、平和市場といえば、韓国人ならみなが思いだす人物は、労働運動家の全泰壱烈士です。韓国の労働運動に大きな影響を及ぼしました。
全泰壹(チョン・テイル)は1965年からソウルの東大門平和市場で働き、劣悪な労働条件と人権侵害を体験して、労働運動家となり、活動していました。全泰壹は1970年11月、「勤労基準法を遵守しろ」「私たちは機械ではない」「日曜日は休ませろ」など叫びながら、抗議の焼身自殺をしました。その時彼は22歳でした。
1970年当時、平和市場を含めた清渓川一帯の市場3か所のみで、全国の既製服需要の約70%を占めていました。しかし平和市場一帯が韓国の衣料産業の発展の中心地となり、全国の衣類小売商が集まる大規模な卸売り市場になったのは、低賃金、長時間労働の劣悪な環境で働く労働者の犠牲があったのです。そして現代も、消費者が東大門卸売り市場で安く服を買うことができるのは、縫製労働者が低賃金で長時間労働をしているケースが少なくないからだといわれています。
清渓川博物館は、施設が新しく近代的で、ゆったりとした読書スペースも設けられています。また、随時企画展示やさまざまな教育プログラムが用意されています。
Address
서울시 성동구 청계천로 530
530 Cheonggyecheon-ro, Seongdong-gu, Seoul
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