韓国の経済は、日帝強占期(日本の植民地支配を受けた時代)に近代化されたようにみえたが、国民は蚊帳の外におかれていた。実状は日帝による金融経済の独占を目的とした侵奪と、戦争資金の調達だった。
日帝の主導による貨幣整理
貨幣整理実施、金融関連法の制定、植民地金融機関設立など、大韓帝国の金融経済を侵奪するさまざまな処置をとるために、日帝は財政顧問として目賀田種太郎を派遣した。
当時国内では、地方によって常平通宝、白銅貨という異なる貨幣が流通している状況であった。貨幣の価値が一致していないという理由と、韓国と日本の貨幣をひとつにする目的で「貨幣整理」がすすめられた。日帝の主導で行われた貨幣整理は、韓国の金融を完全に占領し侵略の基盤を固めようという意図であった。
貨幣整理
(1)金を標準として貨幣の価値を決めることとし、白銅貨を廃止、新たな貨幣を発行することとした。そして、旧貨幣と新貨幣を2:1または5:1の比率で交換するようにした。旧貨幣の価値を低くしただけではなく、旧貨幣に甲・乙というランクをつけて、「悪貨」(額面の価値より実際の価値が低い貨幣)に当たるとされるものを、交換対象から除外し廃棄した。その結果、韓国貨幣は約67%、3分の2ほどが搾取された。
(2)「貨幣条例」を制定し、日本貨幣の流通を公認して韓国で使うことができるようにした。
(3)さらに韓国と日本の貨幣の基準を統一するため、韓国政府に、日本政府または日本政府の保証を受け、資金を借り入れさせるようにした。日本円が公式に国内で流通し、韓国の公式の貨幣は日本円と1対1に割り当てられた。併合後は韓国貨幣を廃止し、額面そのまま日本円に交換するだけで貨幣市場を整理することができるようになった。 これは植民地の貨幣整理にかかる費用を、植民地支配を受ける側に負担させる方法だった。これは韓国の負債を大きく増やすことになり、後の「国債報償運動」が起こる背景の一つになった。
ユネスコ世界記録遺産登録記念「国債報償運動」
国債報償運動とは、日帝の経済主権侵奪による国の負債1,300万ウォンを返済するため、国民が参加した民族運動で、1907年から1910年まで続いた。
国の借金を返すため、男性たちはお酒とタバコをやめ、女性たちは指輪やかんざしを売ってお金を集めた。学生や貧しい者も参加した、世界的にも例をみない、国家の借金を国民が返そうと団結した民族運動である。韓国金融史博物館の企画展示スペースには、主に当時の文書が展示されている。
上の写真は、1907年警務顧問 丸山重俊が同年4月末と6月末までに集められた国債報償募集金額を統監府に報告する文書。各地域の募集金額を調査した金額表が添付されている。統監府が国債報償運動の展開状況を把握していたことを示す文書だ。
国債報償運動は全国的に広がり、新聞社やマスコミが各地方の資金調達状況などを連日掲載、報道した。しかしこれに対し日帝は、運動を主導したマスコミを弾圧し、運動の主要人物を拘束したりした。それらが原因で、結局運動は挫折に終わってしまった。
2017年10月30日、国債報償運動の記録物がユネスコ世界記録遺産に登録された。国民がお金を集めた過程を書いた手記や、マスコミの報道など、日帝への抵抗の歴史の文献2,472件で構成されている。
植民地の金融制度の展開
貨幣整理は、これまでの貨幣改革の歴史の中でも類を見ない交換比率だった。3分の2ほどの韓国貨幣が収奪され、韓国人の金融力は弱まり、日本の貨幣価値が相対的にあがる。結局、日本貨幣が韓国の金融を左右するようになった。
ソウルの商人たちは混乱に陥り、破産する者が無数に発生しただけでなく、自殺する者もいた。組織的に対応しようと、京城商業会議所を設立した。これに日帝は当面の恐慌を収集し、韓国資産家たちの反日感情をおさめるため、農工銀行、地方金融協会、共同倉庫株式会社、手形交換所などの金融機関を設置した。
日帝による植民地経済支配の重要な軸となった会社
東洋拓殖株式会社
朝鮮経済の独占と、土地と資源の収奪、搾取を目的として伊藤博文が創立した国策会社。1911年から日本人を対象に朝鮮への農業移住民を募集し、農民から没収した土地での農業経営、土地経営、林業経営を主力事業とした。1916年日本で米暴騰と呼ばれた食料危機の際には食糧の収奪をおこない、1930年代以降は戦争のための軍需産業を支援した。
朝鮮殖産銀行
朝鮮総督府を金融面で支えた重要な機関のひとつだ。大韓帝国末期に設立された漢城農工銀行など6行を合併し、1918年に設立した。1937年日中戦争以降、約8年間の戦時体制の中で、債券の発行と強制貯蓄を通じて朝鮮の資金を吸収し、日帝の戦争の軍需産業に供給する役割を担当した。
強制併合後、ソウルと地方では各種銀行が設立されていたが、1937年日中戦争が勃発したことをきっかけに銀行合弁政策がすすめられた。
戦争費用を調達するため制定された「臨時資金調整法」
1937年の日中戦争以降、戦争費用が不足した日帝は、戦争費用を調達する方法を審議し、朝鮮総督府は貯蓄奨励委員会を作った。貯蓄奨励委員会は、官公庁や銀行、会社、工場、町会、など各団体に金融組合を作らせた。そしてこの組合を中心に、毎年莫大な貯蓄目標額を設定し、貯蓄を奨励する運動を展開させた。また、金融組合を通じて供出した米の代金の一部を強制的に貯蓄するように制度化したりした。
供出とは、食糧不足を解決するため、強制的に寄付させる形をとり国が購入する制度
日帝強占期の資料を展示する博物館では、上の写真のような貯蓄を促すポスターをよくみかける。当時の国民に貯蓄する余裕などなかったが、朝鮮総督府の命令により金融組合は強制貯蓄や天引きで金を集め、日帝は国債を発行し続けた。
右写真:戦時報国債権
「この債権は臨時資金調整法の規定に基づき発行したるものにして債権売出による収入金は大蔵省預金部に於いて運用するものなり」と書かれている。
左下写真:大日本帝国政府 大東亜戦争割引国庫債券
右には戦車、左には飛行機と煙をあげる軍艦の図柄が描かれている。発効日が昭和19年6月15日、返済期日が昭和29年9月1日。債券の消滅時効は10年と記載されている。14ウォンで販売し、利息をつけ10年後に額面金額の20ウォンを受け取れるという債券だ。
大日本帝国政府 支那事変国庫債券、大東亜戦争国庫債券など、さまざまな名で国債が発行され続けた。上の写真の戦時報国債権に押された富士山の印章には「大東亜戦争」の文字。右は戦車と日章旗、左には軍艦と旭日旗の図柄が描かれている。世界中が見ている場面で、現在もなお、この旭日旗を誇らしく掲げる日本の意図は心底わからない。そして歴史の「鎖国」を継続してきた結果、旭日旗を「おめでたい」ものだと発言する国民が日本に存在している。自国の戦争がどのようなものだったのかすら、学ぶ機会を与えなかったことが原因だ。
戦争が長引き、戦争資金がどうにも工面できなくなっていた日帝は、資金を調達するために朝鮮の国民から搾取し、なりふり構わず国債を発行し続けた。額面金額を返す気はなかっただろうと推測できる。戦争に勝とうが負けようが、また法律を変えたり、新たに法を作れば良いのだから。
結局さまざまな額面で発行されたこれらの国庫債券は、日帝が敗戦し、ただの紙切れになったのである。
解放以後の金融
光複以後、国内は混乱状況であったが、政府は通貨金融制度と金融機関の整備に力を入れ、60~70年代は政府主導で各金融機関が経済発展のため努力した時代だ。
80年~90年代は、金融事業の経済力強化のため市場経済が重要視され、金融の自律と市場開放が続いた。
戦争以後めざましい経済成長を続けた韓国は、企業と金融機関の不実経営で赤字が蓄積し、外貨保有高が大きく落ち込み、経済危機に直面した。1997年政府はIMFに救済を申請し、企業と金融機関の構造調整を導入し、2001年に借入金を早期償還した。
新韓銀行の足取り
1897年、韓国最初の銀行として創業した漢城銀行が朝興銀行に変わり、1982年に設立された新韓銀行と統合して、現在にいたるまでの歴史と、関連した資料を展示している。
4階 新韓ギャラリー
4階の新韓ギャラリーは、韓国の貨幣の歴史、貨幣の鋳造過程の模型や記念硬貨、世界各国の紙幣などが展示されている。
広めの体験コーナーは、小さなお子さんも楽しめる内容になっています。
韓国金融史博物館は、世宗大王や李瞬臣将軍像のある光化門広場から歩いてすぐの場所にある東和免税店の目の前で、一階が新韓銀行 光化門支店の建物にあります。こじんまりした博物館ですので、1時間ほどで見てまわれます。日本語の説明表示はほとんどありませんが、受付に日本語のリーフレットがあります。模型や体験コーナーが充実していて、見るだけでも理解しやすい展示になっています。是非足を運んでみてください。
Address
서울시 중구 세종대로 135-5
135-5 Sejong-daero, Jung-gu, Seoul
-
日章旗と旭日旗
日帝の植民地支配と日章旗 日帝の植民地支配下で、日章旗と旭日旗がどのように使われていたか。日本で教育を受けた人は、ほとんど知ることができない。韓国各地で撮影した写真を紹介。 朝鮮大博覧会のポスター 朝 ...
-
韓国金融史博物館(1)
光化門クヮンファムンにある韓国金融史博物館は、国内最初の金融史に特化した博物館で、新韓シナン銀行が運営しています。現在の新韓シナン銀行の前身、朝興チョフン銀行が創立100周年を迎えた1997年3月27 ...