晋州城は三国時代に百済により建立された慶尚南道にある石城。元々は土の城だったが、倭寇(日本)の侵攻に備えるため、1379年より石城に改築、修復を繰り返し、主に倭寇を防御する基地として使用された。
壬辰の乱と 晋州城
1592年に勃発した壬辰の乱。晋州城の戦いで忠武公金時敏将軍が率いた3,800人の軍が、3万人の日本軍を撃退して「晋州城の大勝利」を成し遂げた。
敵の将軍を抱き、南江に身を投げた義妓ノンゲ
しかしその後、第2次晋州城の戦いで、3万名が殉死し晋州城は陥落した。
倭(日本)軍は矗石樓で勝利の宴を行った。矗石樓の下を流れる南江(ナムガン)にある「義巌」は、義妓ノンゲが敵の将軍を誘い出し、将軍を掻き抱いたまま身を投げて死んだといわれる場所。義理堅い、義を重んじるという意味から「義巌」(義岩)と名づけられている。
日帝強占期(日本の植民地時代)の晋州城
晋州城には、城を守るための堀として、城壁に沿って周辺の土地を掘った大寺池があった。1930年代、朝鮮総督府土地局は、晋州城の土地内部に多くの住宅を建て利益を得るため、晋州城の城郭すべてと城内の一部を取り壊した。そして壊された城郭の土と石を、池を埋め立てるその工事に充当してしまった。大寺池は埋め立てられて、完全に消えてなくなってしまった。
晋州城の復元事業
光複(解放)後 6.25戦争が起きる前、崖の上に建つ楼閣 矗石樓 は国宝に指定されていたが、戦争で燃えてしまった。その後、晋州市民が晋州古跡保存会を作り、1960年、寄付により昔の姿を取り戻した。
この1960年の 矗石樓 の復元を皮切りに、1969年から朴正熙(パク・チョンヒ)大統領の特別指示により、晋州城の復元事業が推進された。1972年 矗石門を再建し、1975年には拱北門 を復元した。
また、1979年から1984年の間に、日帝強占期以降 城内に建った民家 751棟を、補償費用を払って撤去した。1992年からは城の外郭の整備事業と周辺施設の撤去を始め、2000年までに完了した。
1963年1月21日に史跡第118号に指定された晋州城は、8年連続「韓国観光100選」に選ばれている。
韓国観光100選とは
文化体育観光部、韓国観光公社が国内観光の活性化のため、韓国の代表的な観光地を選び推進する事業
歴史に興味がある方、ない方も、慶尚南道に行かれる際にはぜひ美しい晋州城を訪れてみてください。
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626 Namgang-ro,Jinju,Gyeongsangnam-do