植民地歴史博物館(2)

2部 日帝の侵略戦争、韓半島に何が起きたのか

1937年 日帝は日中戦争を始め、自国民のみならず、朝鮮の国民までを総動員しはじめた。侵略戦争に自発的に協力させるため「皇国臣民化政策」を押し付けた。

皇国臣民化政策とは

植民地歴史博物館展示物

各地に神社を作り学校にも鳥居を作った

天皇を神としてあがめ「天皇のためによろこんで命を捧げよ」と、天皇の民としての意識を刷り込もうとした政策だ。各地に神社を建て参拝を義務とし、「皇国臣民の誓詞」の暗唱を強要した。

皇国臣民の誓詞

● 私どもは、大日本帝国の臣民であります
● 私どもは、心を合わせて天皇陛下に忠義を尽くします
● 私どもは、忍苦鍛錬して立派で強い国民となります

日本人に暗唱を強要したとしても驚きを隠せない内容だが、日本人ではなく、朝鮮の国民に強要したのである。皇国臣民の誓詞は、大人用と子供用の二種類が存在する。これは学校だけではなく、官公庁や銀行、会社や各種の集会や行事で提唱することを強制され、学校の成績表や日の丸を入れておく袋、納税のための小冊子など、さまざまな出版物に掲載された。巡査が巡回し、皇国臣民の誓詞を暗記していない場合、罰金やむちうち刑を、学生は授業中に体罰を受けた。

植民地歴史博物館展示物

皇国臣民の誓詞「私どもは、大日本帝国の臣民であります」暗唱を強要した

上の写真の右上の絵に「協力一致 内鮮」と書かれているのが見えるだろうか。朝鮮総督府 7代総督の南 次郞みなみ じろうは、1939年「国民精神総動員朝鮮連盟」の委員総会で「日本と朝鮮は本来同じ民族であり、形も心も、血も肉体も、皆が一体にならなければならない」という論理で、「内鮮一体」というスローガンを掲げた。当時の雑誌や多くの印刷物に、このスローガンが残されている。

侵略戦争に動員するため、民族精神を抹殺し、朝鮮の民を日本人にするために、日本式の名前に変えさせ(創氏改名)、母国語の使用を禁止した。また、韓国語の雑誌や新聞を廃刊させた。歴史に対する教育や研究をさせないようにし、国を抹消しようとした。

植民地歴史博物館展示。日本に同化させるため韓半島各地に神社や鳥居を立てた

鳥居があり日本の写真かと混同しそうになるが、まぎれもなく韓国だ

学校を軍事訓練場に変え、学生たちに軍事物資を作る仕事をさせた。勉強の代わりに、日本の戦争のための教練と勤労を強要した。

天皇は神、神の民が通う「皇国臣民学校」

1941年3月には「朝鮮教育令」により、初等教育機関の名称を「国民学校」に変えた。「国民学校」と聞けば、国民のための学校という意味だと勘違いしそうになるが「皇国臣民の学校」であり、神である天皇の臣民が通う学校という意味である。子供たちを軍国主義の少年戦士として、未来に忠実な「皇軍」として育成しようとしたのだ。

植民地歴史博物館展示物

学校には巨大な日の丸

大韓民国では光複後も「国民学校」という名称が継続して使用されてきたが、1996年3月1日から、日帝強占期の残滓の清算として、初等教育機関は「初等学校」に変えられた。

余すことなく総動員せよ

戦争が長引くと不足した軍事物資を補うため「折れた釘も立派な武器となる」と、韓半島全域で「一戸一品献納運動」が実施された。書いて字の如く、一戸に一品以上、金属でできたものや物資を強制的に献納しなさいというものだ。

植民地歴史博物館展示物

右上の本:小国民常識読本
小学生高学年~中学生のための本。神社参拝をする理由、日本語常用化をする理由、日本の敵国、日本の祭日など、立派な「皇国臣民」になるため、必ず知るべき常識を教える本。子供たちを洗脳し、天皇のため進んで戦争に出る兵士として育てようとした。

下段雑誌:国民精神総動員 一戸一品献納運動

日帝は韓半島の地下資源と海洋資源、山林まで余すことなく略奪した。農村からは米や干草はもちろん、軍人や馬が食べる食料や、イヌの皮、豚の皮まで軍需物資として隅々まで手当たり次第奪っていった。物資統制と生活必需品は配給制を実施し、都市、農村関係なく、すべての住民に極限の窮乏な生活を強要した。

日帝は戦争に必要な財政を補充するためより多くの税金を付加する一方、強制貯蓄額を決め、村単位で取り立てていった。親日派たちを先頭に立たせ債権を買うよう強要し、貧しい民衆のふところからも搾り取っていった。朝鮮人は、残った麦の種子を献納すること。
婦人会で一家に麦米一升ずつ集め捧げること。毎月一膳ずつ集め捧げること。など、献金と献納も強要をした。その他にも多様な各種の雑多な賦課金が多く、戦争期間中ずっと餓えに苦しんでいた。

引用:植民地歴史博物館 展示

青春弔旗が掲げられ、動員された人々

民族を抹殺し日本人と同化させようとしたが、扱いは日本人とはまったく違った。1938年から、志願兵という名目で強制的に兵力動員が始まった。

植民地歴史博物館展示物

真鍮製の食器はすべて供出させられた。代用品の陶磁器のお椀

日帝侵略戦争が長引き、朝鮮人青少年ならだれでも炭鉱、土木労働者や戦場の最前線につれていかれた。日本、中国、サハリン、南洋群島などに動員された労働者たちは少なくとも 72万名以上だった。朝鮮人労働者は差別的で暴圧的な待遇を受けた。いつも監視を受け、逃走して捕まれば死ぬほど殴られた。大部分は非衛生的で危険な現場へ配置され、日本人より事故率・死亡率がはるかに高かった。各種名目で賃金を控除されたり、強制で貯蓄させられ一家の大黒柱と同じ息子と夫を奪われた家族たちは、過酷な生活苦を味わった。

引用:植民地歴史博物館 展示

植民地歴史博物館展示物

「国への奉仕」「いざ決戦生活へ」などと書かれたポスター

強制徴用、徴兵。「日本のために」若者は戦争の最前線に送られた。軍人、軍属として動員された40万名以上の青年たちのうち、21,000名余りが犠牲になった。そして数万名の女性たちも女子勤労挺身隊と日本軍従軍慰安婦として動員され、強制労働と人間の尊厳性を破壊される被害をこうむった。

帰れない魂、残された人々

日帝が降伏し韓半島は解放されたが、多くの者たちはかえって来ることができなかった。遺族たちは死亡通知も、遺骨も受け取れないまま喪失と苦痛の余生を生きなければならなかった。生きていたとしても広島、長崎で被爆したり、戦犯として連合国戦犯裁判を受けたり、シベリア捕虜収容所やサハリンで強制抑留され、帰ってこれない者たちもいた。敗戦後日本政府は、弾丸を受ける最前線へ連れて行き、亡くなった二万一千名余りの朝鮮人軍人、軍属犠牲者たちを、侵略戦争の象徴である靖国神社に無断で合祀するという「第二の加害」を犯した。残忍な戦争犯罪の犠牲者である日本軍慰安婦被害者たちは、地獄のような人権蹂躙の現場に生き残っても、故郷にも帰れず、自身の被害を隠して生きなければならなかった。徴用、徴兵で消息が途絶え、家族の生死さえわからない遺族たちはいまだ家族の痕跡を探しさまよっている。強制動員の被害はいまなお世代を超え続いている。

引用:植民地歴史博物館 展示

棺にこめた願い

一階の企画展示室には、強制動員で亡くなった方たちを追悼する場所がある。死亡通知も届かず、遺体も遺骨も帰ってこなかった方、家族も知らないうちに靖国神社に合祀された犠牲者もいる。故郷に帰ってこれなかった方たちの魂を慰めようと、韓国と日本の市民団体が合同で葬儀を執りおこなう場所だ。華やかに装飾した棺は、亡くなった方が旅立つ前にとどまるところだ。家の形につくった棺には、生の最後を豪華に送りたい、という遺族たちの願いがこめられている。

植民地歴史博物館展示物

強制動員されて亡くなった方々を追悼する棺。博物館の来訪者も、棺を飾ることができる

強制動員により家族を失った遺族たちの声が、当時の写真とともに実名で公開・展示されている。(下記は一例)

●父が戦地につれていかれた時、6歳だった。行かないで、と泣くわたしを、父は「蓄音機を買ってくる」となだめた。父の後ろ姿をながめていた記憶が今でも浮かぶ。泣きながらつかまる息子を背に、死ぬかもしれない戦地に行かなければならなかった父を思うと胸がちぎれる
【1908年 京義道平沢市で生まれ、1944年 強制動員後中国で死亡】

●解放されたが、父は帰ってこなかった。後に死亡通知書が届いた。その後母の病気が悪化し、祖父、祖母もなくなった。食べるものがなく餓えた弟は病んでいたが、死んでしまった。父が連れて行かれた4年後にすべての家族を失った時、11歳だった。
【1914年 京義道ヨジュで生まれ、1944年 軍属で南太平洋に強制動員後1945年パラオ島で死亡】

●父が沖縄に徴用され、その後母もなくなり孤児になった。学校も行けず工事現場を転々として生きた。父は生きていると信じ死亡申告もしていなかったが、1996年、行方不明になったという消息をつかんだ。どこでどのように亡くなったのかさえ知ることもできないまま、父が連れて行かれた沖縄で祭祀をした。
【1915年 慶尚北道尚州で生まれ、1944年 沖縄陸軍軍属として連れて行かれ行方不明】

日帝の強制動員により、過酷な労働を強いられた人々に正当な対価は支払われなかった。給料の代わりに受け取った軍用手形は、日本の敗戦で紙切れになった。

植民地歴史博物館

お金に交換されることはなかった。現代でも非常によく似た事件が起きるが、詐欺犯罪以外の何ものでもない

右:郵便貯金通帳
戦争費用を確保するため、軍人軍属に支給された給与が引かれ強制的に加入させられた。このように強制貯金をさせたが、戻らなかった郵便貯金口座は 1900万個であり、これは現在ゆうちょ銀行が保管していることが最近明らかになった。

左:軍用手形
第二次大戦時、日本が侵略戦争を拡大しながら、占領地で貨幣の代わりに使った軍用手形だ。「軍用物資を手形で購入する」という形式であったが、事実上、占領地の住民から略奪する道具だった。強制動員された朝鮮人は給料の代わりに軍用手形を受け取った。日本が敗戦し、すべて紙切れになった。

死亡したことが明らかで、書類も残っている人たちが、日本政府とやり取りをした書類なども展示されている。

植民地歴史博物館展示物

遺族が日本政府とやり取りをした書類。「調査に時間が長くかかることがあります」という内容の曖昧な回答文ばかりだ

植民地支配の歴史を知る

なぜ韓国・朝鮮人が日本に住んでいるの。日帝が植民地支配をした過去の歴史について、日本は国民に情報を与えないように尽くしてきたため、よくわからず、疑問に思っている人がいまだに多いです。植民地支配の歴史を知れば驚くほど答えは簡単です。土地調査事業で、多くの農民が土地を奪われました。生きることができなくなり日本へ渡ったり、日本の侵略戦争による強制動員で連れてこられたことが始まりです。そして日本国内でも同様に、皇国臣民化政策が行われました。日本式の名前に変えさせられ(創氏改名)、母国語を禁止され、日本人として天皇に命をささげるよう強要されました。そして敗戦すると、侵略戦争に動員するため押しつけた日本国籍を剥奪し、補償もせず、事実上放り出したのです。

驚くことに「韓国が好き」で韓国を旅行したり、暮らしている人の中にも、日帝の植民地支配の歴史を知らない人が少なくありません。差別や、根拠のない優越感はすべて無知から生じているもの。日帝の植民地支配の歴史を知っていれば根拠のない優越感を持つことはないでしょう。

なぜ通称名をつかっているの。なぜ母国に帰らないの。なぜ帰化しないの。そんな疑問が浮かぶかもしれません。しかしながら、在日韓国・朝鮮人に限らず、どの国の、どんな人にとっても、100人の人がいれば100人の背景、生き方、考えがあります。簡単ではなく、非常に繊細な質問であるべきだと考えます。人をひとくくりにすることはできないし、答えは100通りあるはずだからです。

「戦争」という言葉を聞くと、どんなことを想像するでしょうか。食べる物がなく苦しんだ。子供たちが疎開した。原爆を投下されたこと。終戦の日のラジオ放送などでしょうか。そのような内容の書籍はたくさんあり、ドラマや映画にもなっていて、誰もがある程度の知識を持っていると思います。

自分の国や出身地、背景を大事に思うのは人の心であり、自然なことです。ただ、日帝が植民地支配をした時代に、朝鮮の民を天皇の臣民にしようとしたこと。韓半島から食料がなくなり、毎年数千人が餓死したこと。食糧基地として使われ、資源や物資が根こそぎ持っていかれ何も残されなかったこと。「日本の」戦争のため、強制徴用や徴兵で数万人の若者が亡くなり、まだ少女だった数万人の女性たちが従軍慰安婦として強制動員されたこと。このページを読んでいただき、いままで知らなかったこれらの事実を、こんなことがあったんだと、知識として、ただ知っていただけたら幸いです。

どの国に生まれても、同じ人間であり、正しいものは正しく、痛みを感じる気持ちは同じだと思うからです。

植民地歴史博物館。屋上から見える景色

植民地歴史博物館の屋上。ソウルタワーが見える

植民地歴史博物館は、日本語の説明文は多くありませんが、植民地時代の展示品は日本語のものがほとんどですので、理解しやすいです。日帝強占期がどのような時代だったのをか知ることができる、とても有意義な博物館ですので、是非足を運んでみてください。

Address

植民地歴史博物館
서울시 용산구 청파로47다길 27
27 Cheongpa-ro 47da-gil, Yongsan-gu, Seoul
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