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仏国寺(プルグッサ) 吐含山(トハムサン)の日の出
ユネスコ世界遺産、国宝24号石窟庵 新羅時代最高の技術により、緻密に計算され造られた造形物。ソウル二村の国立中央博物館の展示に、石窟庵の構造をCGで見ることができる映像室があります。その映像を見て以来 ...
仏国寺(プルグクサ)石窟庵(ソックラム)
早朝に来たときは入場できなかったので・・・日中にまた石窟庵(ソックラム)のある吐含山(トハムサン)へ。石窟庵も仏国寺(プルグクサ)に属していますが、山の麓の仏国寺からは距離があります。車やタクシー、仏国寺からバス、また登山がてら歩いて行く人もいます。
バスもこの道を通っていきます。
左上の建物、仏国寺鐘閣(プルグッサ チョンガッ)では、鐘をつくことができます。わたしもつきましたが、とても良い音が響きました♥(有料:確か1,000ウォンだったと思います)
石窟庵は東海(日本海)の日の出が美しく見える名所としても有名です。
石窟庵入場券にも日の出の写真がつかわれています。
石窟庵(ソックラム)は仏国寺とともに、1995年ユネスコ世界文化遺産に登録されました。
石窟庵(ソックラム)は山の中腹にあるので、ここから緩やかな山道を登っていきます。
ごつごつしてはいないですが、歩きやすい靴で行かないと少しつらいです。
紅葉の時期の慶州の美しさは・・・語ることができないのでぜひ実際に見に訪れてほしいです。
日帝の植民地支配期に解体され、運び出された石窟庵を元の場所に戻したとき、位置がわからなくなってしまった数々の石が展示されています。
悲しい石窟庵
石窟庵内の本仏は、ある事情からガラスごしに見学するようになっています。それは、日本植民地時代の、韓国の文化財に対する略奪の歴史と、コンクリートを使って行われた補修の結果です。
*ゴールデンシティ 慶州市 日本語版ウェブサイト「#悲しい石窟庵」で確認できます
石窟庵(ソックラム)について、昨今はインターネットで検索すれば多くの文書が見つかります。しかしながら日本語の記述の場合、日本帝国が韓半島で多くの文化財を略奪、破壊、移動、撤去したことなど、日本にとって都合の悪いことは、あまり見つけることができません。
そして、ガラス越しにしか見学できなくなった原因である、日本植民地時代のコンクリートで行われた補修についてすら「当時としては最新の技術であるセメントが使われた」などと書かれています。日本語で検索して読む人がそのまま受け止め、まるで「日本が良いことをした」と、誤解するよう書かれています。
残念ながらそういったことはよくありますが、特に日本版ウィキペディア(Wikipedia)は、読む人を誤った方向へ誘導する内容になってます。歴史を知らない、そもそも現地に行ったこともない、日本語しか理解せず、机の前に座って集めた浅い情報で悪意を持ってまとめた記事です。
さすがに昨今は、誰もが編集可能であるウィキペディアに誤った情報が多いことは、多くの人が知っている・・・とは思いますが、こと韓半島に関する記述は事実でないことばかりで、レベルの低いネトウヨの願望、残念な歴史修正が続いています。
失敗することも当然あるでしょう。都合の悪い過去の事実を、隠せば、言わなければ、なかったことにできるわけではありません。新羅時代の宝物に、日本帝国が与えたダメージ。どんなに隠しても実際にあった歴史の真実はひとつです。
石窟庵の日差し神話
石窟庵は撮影禁止となっているため、本尊仏の写真は撮れません。下の写真はロッテワールド民俗博物館にある石窟庵の模型。僧と比較するとかなりの大きさであることがわかるでしょうか。
石窟庵のガラスの前室の天井には、名前の書かれたハスの花の提灯が飾られています。これらの提灯は仏国寺へ寄進する形で作られます。住所や家族全員の名前、願いを記帳し、費用(1万ウォンから)を係の人に渡せば、どんな言語で書いてもOKです。
本仏の正面には両開きの扉がありました。ただ石窟庵自体も山の中腹の高い場所にあり、本尊仏も奥まった場所にあります。
だんだん日が昇ってきたら・・・扉が全開に開いていたら・・・石窟に日差しは入ると思いますが、今の構造では、本尊仏の額に、東海の日の出の光は当たらないだろうと思います。
研究で明らかになる、新たな石窟庵
90年代始めくらいまで、修学旅行で慶州を訪れる学生や観光客に語られた、石窟庵の日差し神話。石窟庵の研究者で、石窟庵美学研究所のソン・ナクジュ(성낙주)所長の主張は、以下の通りです。
いつからか神秘的な民族の神話として語られる「石窟庵の日差し神話」東海(日本海)の朝の日差しが石窟庵・本尊仏の白毫 (백호:額にある点)を照らすという話。これは日本帝国の太陽信仰が投影された実体のない虚像であり、太陽信仰を植民地統治の手段にしたのだ。ソン・ナクジュ著書:石窟庵、法廷に立つ(석굴암, 법정에 서다)
近年の研究により多くの理由があげられていますが、まず新羅は昔から「月」に近く、「太陽崇拝」は日本のものである点。
新羅の首都、徐羅伐(ソラボル)は月の都市
❍ 新羅時代に造られた国宝が保存される寺や慶州の地名には月を意味する달・월がつく名前が多い
❍『三国遺事』に載っている14首の郷歌のうち、月が登場する作品は5編、日・太陽が登場する作品は1編もない。また、朝鮮時代にも東海の陽の光に関する話は見つからない
❍ 石窟庵がある吐含山も 「月含山」「含月山」と呼ばれていた。日本による植民地時代、観光地遺跡地を回り印鑑を押してもらう家人帖にも「咸月山石窟庵」と印刷されている
日本帝国の「太陽崇拝」
❍ 日本の神話に登場する太陽の神「天照大神」や「大日如来」などが根拠
❍ 日帝は朝鮮、グアム、台湾、フィリピン、満州などを侵略する度に神宮と神社を建て、多くの神社に「天照大神」を祀った、など
参考:京郷新聞、仏教ドットコム
新羅の王城の名前は月城(ウォルソン)で、慶州の観光地として有名な雁鴨池(アナッチ)も月池です。そして日本の日の丸はもちろん、侵略の象徴である旭日旗も太陽ですから、日本の太陽崇拝は、そのままです。
そもそも、日帝の植民地時代は、全てが歴史を修正したものです。「内鮮一体」というスローガンを作り、朝鮮と日本は一体だとし、名前を日本名に変えさせ、母国語を禁止し「日本人になれ」と日の丸を押しつけたのは、現代人から見たら狂気ではありませんか。自らの侵略戦争に利用するため、めちゃくちゃな理屈を押しつけていたわけです。
日帝の植民地時代は、新羅時代の宝物である石窟庵も「日本のもの」として、太陽崇拝していた日本帝国が「日本海の」朝の太陽の日差しの幻想を作ったということです。
下を見下ろすと、かなり山を登ってきたことがわかります。
ソン・ナクジュ所長は「私たちが日本植民地時代を語る時、母国語の抹殺、創氏改名、徴兵と徴用、学徒義勇軍、慰安婦、農地収奪、米穀の搬出、鉱山採掘権、人体実験、虐殺、拷問などの用語を頻繁に引用する。 しかし、日本の太陽信仰が文化植民地観として働いた事実、この地の至る所に君臨した神宮神社の役割については疎かだ。 われわれは依然として日本が残した植民史観の陰の下にある」と述べた。
引用:仏教ドットコム
いつかきっと見たいと思っていたソックラム。感動を受けました。
多くの場合、昔学校で習ったことやテレビで耳にしたニュースは正しいことだと信じてしまいます。また、昔は単純に情報を得ることができず、真実が見えなかったこともあります。そして、意図的につくられた嘘でなかったとしても、昔は本当だと思われていたことが真実ではなかった、ということもあります。
歴史も、科学も、近年の研究によりあらためて明らかになることも多く、これから、さらにたくさんの真実が明らかにされていくでしょう。歴史は修正できず、本当のことはひとつしかないからです。
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仏国寺(プルグッサ) 吐含山(トハムサン)の日の出
日章旗と旭日旗
興国寺(フングクサ)テンプルステイ