日帝強占期 漢陽都城の毀損
日本の植民地支配を受けた時代を韓国では「日帝強占期」といいます。日帝強占期 1910年~1945年の間に、朝鮮時代からソウルとともにあった城郭都市に何が起こったか。東大門城郭公園内にある、漢陽都城(ハニャントソン)博物館の第3展示室の展示物より紹介します。
城郭都市の近代化
世界中の城郭都市は、近代化によって、城壁の必要性や存在価値が下がり、取り壊される運命にあった。ソウルも近代化により、19世紀末から電車や自動車などの交通手段が導入され、道路が必要になった。またそれに加えて、ソウルの近代化は、日帝の侵奪とともにあった。日帝は平地にあった城壁を取り壊し、数百年の間ソウルのシンボルだった城門を破壊し、撤去したりした。
1904年 日露戦争を挑発した日本は韓半島に大規模軍隊を上陸させソウルを占領し韓国を植民地にする準備を始めた。
1905年 外交権を強奪し、施政改善を助けるという名目で内政干渉を本格化した。
1907年 大韓帝国軍隊を解散させ高宗を強制的に退位させた。韓国政府を掌握した日本人官吏たちは衛生的な脅威を除去するという名目で、崇礼門と興仁之門外にあった池を埋め立て、城郭の一部を撤去した。「城壁処理委員会」という機構が設置され、崇礼門と昭義門、興仁之門付近の城壁と五間水門の鉄柵を撤去すると決定し、すぐさま実行した。撤去された城壁のかけらは道路と建築工事の材料として使用された。引用:漢陽都城(ハニャントソン)博物館 展示
破壊、撤去された朝鮮時代の門楼
日帝は1914年 昭義門1915年 敦義門を取り壊し、その門楼と石を建築資材として売却した。恵化門は道路を拡張するという名目で撤去された。
歴史から消された敦義門
敦義門は 1396年漢陽に遷都した際に建てられた8つの城門のうちのひとつで、漢陽都城の西側の門だった。日帝強占期の1915年、朝鮮総督府は、京城(ソウル)を開発し、 道路を拡張するためにじゃまになった敦義門を壊し撤去した。
敦義門の貴重な付属物は朝鮮総督府が管理するようになり、瓦や木材は、競売にかけられ石材と周辺城壁は道路工事資材として使用された。このように朝鮮王朝初期の時代から約500年間、西大門の役割をしていた敦義門は、歴史の中から消えてしまったのである。
敦義門の復元計画
2014年 ソウル特別市は、交通渋滞を誘発する地域であった西大門(ソデムン)地域の高架道路の撤去と連携し、敦義門を復元する計画を発表した。しかしながら高架道路は2015年に撤去が完了したが、敦義門は、原形のまま復元すること、予算の問題が重なり、2019年現在、いまだ復元が実現されていない。
水門と城郭を取り壊してつくった運動場
1925年、日帝は 日本の皇太子(昭和天皇)の結婚を記念し、ソウルの中心地に運動場をつくるため、興仁之門と光熙門の間にあった城壁を破壊、水門を取り壊した。城壁の下段部は観衆席の基礎として使用された。
ここは2007年まで東大門運動場があった場所で、現在は東大門歴史公園駅と直結しているDDP(東大門デザインプラザ)になっている。東大門運動場が取り壊される過程で、文献でしか確認することができなかった二間水門、朝鮮時代から大韓帝国期、日本植民地時代までの遺物 2,500点あまりが発掘された。
京城(ソウル)の人口増加
日帝強占期の収奪的農業政策により、土地を奪われ、農村から追い出された農民たちが大挙してソウルに移住し、1920年代からソウルの人口が爆発的に増えた。都城内の小川沿いや山の麓、共同墓地の周辺まで、住むところを失った人々のテントやトタン屋根の家がたった。これが現在の城郭マウル、タルトンネと呼ばれるようになる地域だ。
撤去された漢陽都城の城郭と墓地
朝鮮時代は四大門の中で葬儀をすることはできなかったため、人が亡くなると棺を担ぎ、光熙門や昭義門から外に出て葬儀をした。
昭義門、崇礼門、光熙門、恵化門 の外側の地域は、1920年まで数百年の間、都城の人々の墓地があった場所。城壁は墓として使用できるところと、できないところを分ける境界線の役割をしていた。しかし朝鮮総督府は、人口増加への対応と、京城(ソウル)を大陸侵略の基地とするため、1936年、都城の外側にあった墓地や周辺地域を新しい宅地として開発、城郭周辺の道路を拡張した。撤去された城郭の石は建築工事の材料として使われた。
木を彫って作られた「コッドゥ」は、さまざまな姿をしている。この世とあの世の境界に属し、苦しんだり悲しみに沈んだ人を慰め、亡くなった人を冥途へ安全に導いてくれる、西洋宗教的に言うならば天使のような存在だ。あの世での新しい生を願う意味が込められている。
城郭を壊して造った朝鮮神宮
1937年 日帝は日中戦争を始め、朝鮮の国民を総動員した。戦争に自発的に協力させるため「皇国臣民化政策」を推進し、各地に神社を建てた。現在 Nソウルタワーがある南山地域にあった城郭は、神宮の参拝路を造るため、大部分が取り壊されてしまった。
「皇国臣民化政策」とは
天皇を神としてあがめ「天皇のためによろこんで命を捧げよ」と、天皇の民としての意識を刷り込もうとした政策。母国語を禁止し、日本式の名前に改名させ(創氏改名)、各地に神社を建て参拝を義務とし、「皇国臣民の誓詞」の暗唱を強要した。
皇国臣民の誓詞
● 私どもは、大日本帝国の臣民であります
● 私どもは、心を合わせて天皇陛下に忠義を尽くします
● 私どもは、忍苦鍛錬して立派で強い国民となります
学校にも鳥居をたて、子供たちは毎日学校で、大人は官公庁や会社、各種の集会や行事で、暗唱を強要された。日本の国民に暗唱を強要したとしても狂気を感じる内容だが、植民地の朝鮮の国民に暗唱を強要したのである。現在の「君が代斉唱」レベルの話ではないが、日本で教育を受けたほとんどの人は知らない事実のひとつだ。
「天照大神 明治天皇の二柱を祀るべき官幣大社にして 京城南山の中腹に造営中なり」と書かれている。侵略戦争に動員するため「よろこんで命を捧げよ」と天皇を「神」とあがめた。
神宮と参拝路をつくる過程で城郭は大きく毀損された。崇礼門(南大門)前には「朝鮮神宮参道」の文字を刻んだ大きな灯篭を建てた。
漢陽都城の再生
日帝による毀損と、終戦後の近代化の中、漢陽都城の平地区間の城壁は、大部分が撤去されなくなってしまった。しかし、幸いに山地部分の城壁は大きく毀損されなかった。保存、発掘と復元工事により、漢陽都城の城郭は600年前からソウルと共存している。現在は漢陽都城の城壁は13.370km 残っており、現存する世界の首都城郭の中で一番長い。
韓国料理や化粧品、美容、Kpopなど、韓国のさまざまな文化に興味を持ち、韓国を訪れる方、歴史ドラマの影響で朝鮮王朝時代の歴史に詳しい方もいます。しかしながら、韓国を知ろうと思えば、日帝強占期(日本の植民地支配の時代)の歴史は避けて通れません。日本の学校では教えませんが、知らなかったことを知るのは、有意義なことです。
崇礼門(南大門)、興仁之門(東大門)は、ソウルのランドマークとして常に多くの観光客が訪れる場所です。これらの場所を写真スポットとしてだけとらえるのではなく、このような歴史があったということを、少しでも知って、何かを感じてもらえたらうれしいです。数百年続いてきた歴史が、大切な文化遺産が、破壊されなくなってしまう痛みを感じる心は、人間なら誰でも同じはずだと、わたしは考えています。
個人的な散策はもちろん、漢陽都城をめぐるツアーは数多く、韓国人だけではなく、日本人を含めた外国人にとても人気がある観光コースです。無料で参加できるプログラムは毎週、区域によっては毎日用意されています(要予約)ので、是非参加してみてください。
お問い合わせ
漢陽都城博物館
서울특별시 종로구 율곡로283 서울디자인지원센터 1~3층
Seoul Design Support Center, Yulgok-ro 283, Jongno-gu, Seoul 1st~3rd floor
漢陽都城ホームページ(日本語)
http://seoulcitywall.seoul.go.kr/front/jp/index.do
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