日本では目にすることがない植民地支配の歴史
韓国の年表の1910年~1945年は「日帝強占期」と呼ばれ、日本から植民地支配を受けた時代です。
しかし、日本は韓国という「外国」で、植民地支配をした時代のことを学校で教えてきませんでした。学校で歴史を学ぶと、1910年~1945年は、ただ明治、大正、昭和時代です。日本が植民地支配をした時代に、韓半島でどんなことがあったのか。実際にあったことですが、大変に都合の悪い話です。だから、教えませんでした。わざわざ教えなければ、日本で教育を受けた人は知ることができません。
一例ですが、日本の戦争で亡くなった多くの日本人を哀悼する式典が毎年行われても、その後ろで何百万という朝鮮の民が日本のために犠牲となったこと。実際に起こった事実ですが、多くの人が知らないため、なかったことのようになっています。しかし日本で教育を受けた人は知らなくても、韓国では当たり前の歴史であり、大昔のことでもありません。多くの写真や資料も残っています。
韓国にはさまざまな博物館があり、商業目的でない限り、写真撮影も認められています。(フラッシュや三脚の使用は禁止)近年韓国には世界中から外国人が訪れます。世界中の人が日帝強占期について知り、学ぶことができますが、日本ではいまも変わらずタブーのように扱われています。このページでは、日本では公開されない、ほとんど見ることがない資料を紹介しています。
植民地歴史博物館は、ソウルの中心地、龍山区に位置しており、日本による植民地支配から光複後、現代までの歴史を記録、保存、展示している国内最初の日帝強占期専門の博物館です。この龍山区という場所は、日帝強占期の傷跡が思い起こされる数々の植民地の遺跡が残っている場所です。
植民地歴史博物館は2018年に開館したばかりで、館内はとても新しくきれいです。(2019年12月までは入場料無料で見学可能)受付のある1階はミュージアムショップと企画展示室、公演などを行うホールがあります。常設展示室は2階にあり、展示は4部構成です。ここでは1部と2部の展示の流れと、関連する日帝強占期の出来事について紹介します。
1部 日帝はなぜ韓半島を侵略したのか
侵略戦争と大虐殺、類をみないほど過酷だった植民地支配の実情
武断統治と文化統治というアメと鞭
国を失った植民地の民衆がたどらなければならなかった差別と苦難
・中段右:朝鮮駐屯歩兵第78連隊満州抗日勢力弾圧現場
・下段左:義兵鎮圧の功労として受け取った下賜金の授与証義兵を「暴徒」と表現している
義兵とは
大韓帝国時期、ろくな武器も備えていなかった民間人が、日帝に対抗するため戦った。韓半島に来た日本軍に対峙した義兵戦争は1915年まで続き、20年間の抗争中に、民衆15万人以上が殉死した。
下の写真は、フランスで1843年から1944年8月まで発行されていた週刊新聞「L'Illustration」に掲載された写真。
「la soldat japonals et le portefaix corean,日本の兵士と韓国の運搬人」と書かれている。上の写真と同じかばんを3つ以上背負っている。軍人は満面の笑顔だ。
強制併合条約締結
1910年日本軍は漢城の城門、王宮を包囲し、ものものしい警備を広げ、強制併合条約を秘密裏に締結した。次の週に韓国併合に関する条約が公布され、日本の植民地に転落した。
引用:植民地歴史博物館展示
下の写真は、明治時代の日本の新聞「日出新聞」で1911年 新年の特別付録として配布された。「併合詔勅」と書かれた文書を手にした朝鮮総督府初代総督の寺内正毅が「あがり」のすごろくだ。
古代から「併合詔勅」のゴールまで、強制併合に至るまでの歴史的場面を関連した人物と一緒に描き、面白おかしく遊びの素材にしている。ゴールには「併合詔勅 上がり 万歳」と書かれている。現代であれば信じられない内容だが、この時代は新聞社がこのようなものを作っていた。ここに書かれている「詔勅」とは、日本国憲法施行以前において、天皇が公務で行った意思表示で、天皇の発する公式文書の総称のこと。これは、強制併合は天皇の意思で行われたということをあらわしている。参考までに、韓国にとっての光復節、日本のいわゆる「終戦の日」にラジオで流れた天皇の肉声も終戦の「詔勅」である。
日本の天皇が直接任命した朝鮮総督は天皇を代理し植民地朝鮮を支配する最高支配者だった。総督の命令はそのまま法であり、一般政務はもちろん軍隊統率権を持った。ただ天皇へのみ責任を負うだけで、日本内閣の干渉を受けない「小天皇」と呼ばれる絶対君主の地位を享受したのだ。
引用:植民地歴史博物館展示
破壊された景福宮(キョンボックン)
韓国では、日帝強占期に多くの貴重な文化財が略奪され、悪質な場合にはその場で破壊された。日帝がまず破壊対象としたのは、韓国の象徴的な文化財だった。現在韓国を訪れる観光客が訪れる美しい宮殿の多くは、日帝強占期に解体、搬出、破壊、縮小されている。
観光で訪れる外国人に人気の高い景福宮は、朝鮮王朝を開いた太祖(李成桂)が漢陽に遷都し、一番最初につくった宮殿だ。1915年、朝鮮物産共進会は、景福宮で博覧会のようなイベントを開くため、主要な複数の城郭を破壊した。無断で解体、搬出し民間の日本人に売り、宮殿だった建物が料理屋になった事例も少なくなかった。
後に、朝鮮総督府はスペースの不足を理由にして、わざわざ朝鮮時代の王宮、景福宮の興礼門区域を破壊、撤去し朝鮮総督府の新庁舎を建てた。当時の総督であった寺内正毅がこの場所に建てることを主張したのだ。また、景福宮の入口であった光化門を解体、別の場所に移し「総督府広場」と呼び屋外イベントを行ったりした。
景福宮は日帝強占期に勤政殿など、一部の建物だけを残し、大部分の建物が撤去された。朝鮮王朝第26代王の高宗(大韓帝国 初代皇帝)当時に500余棟あった建物の中で、36棟のみが破壊・撤去されずに残った。
景福宮復元整備事業
1990年から、2030年完了を目標に、本格的な復元事業が始まった。朝鮮総督府の建物を撤去して興礼門を復元し、王と王妃の寝殿、東宮、乾清宮、泰元殿は当時の姿を取り戻した。
復元整備事業は高宗の時代、最終的な景福宮完成時の1888年を基準とし、現在も続けられている。2010年の時点で1次復元整備事業が完了し、89棟の建物が復元された。しかし破壊・撤去されずに残っていた36棟を含めても125棟、高宗の時代に500余棟あった建物の25%が復元されただけである。(ここまでに1,572億ウォンの予算が投入されている)
もともとの景福宮の規模に驚くと同時に、どれほど多くの貴重な歴史的文化財が破壊されたかということが、おわかりいただけるだろうか。
日本にも1400年前後に建てられた建物は多く残っており、現在そのほとんどは重要文化財として指定されている。それらが悪質な方法で破壊・撤去され、消えてしまう。その痛みはどれほどのものなのか、想像してみてほしい。
武断統治の象徴である憲兵警察制度
民衆の抵抗を抑えつけるため、軍隊と憲兵警察が民衆の生活までを監視し、弾圧した。
武断統治は、警察または憲兵に強大な懲罰権限を付与した「犯罪即決令」という、反人権的な法律がつくられ、これを後押しした。「犯罪即決令」とは、警察は、犯罪を裁判なしに即決することができるという法律だ。しかし、即決の宣告を受け、不服があるものは、裁判を起こさなければならないという、無茶苦茶な内容であった。
そして懲罰は、費用をかけずに肉体的苦痛を与える、おそろしく非人道的な「むちうち刑」が代表的であった。
「むちうち刑」
この資料は、1912年3月18日、条例13号と朝鮮総督府令第32号に植民地の時期、朝鮮で施行されたむちうち刑に関する法令の一部である 「朝鮮むちうち刑」と 「朝鮮むちうち刑施行規則」だ。むちうち刑は人体に直接むちをうつ身体刑だ。一般的に人の体にむちをうつ身体刑は、最低限の人権が尊重されないなどの理由で、近代の司法体系では概して認められていない。朝鮮でも1894年(高宗31年)すでにむちうち刑を廃止し、日本も「近代化」を成す過程で西欧の影響により、むちうち刑を廃止した。ところが、日帝は自分たちの植民地である台湾と朝鮮では、むちうち刑を実施する二律背反的な行動を見せた。その理由として、日本はいわゆる "民度"を挙げた。朝鮮はまだ国民の水準が高くないため、むちうち刑をそのまま続けることが合理的という主張だった。これにより、「朝鮮むちうち刑」の適用対象も「朝鮮人」に限定された。
引用:国史編纂委員会 WEBサイト(http://www.history.go.kr/)
各地で起こった民族解放運動
そしてやがて3.1独立運動が起こった。朝鮮総督府は「武断的処置」を一部修正し「文化統治」を掲げた。残酷な刑罰だった「むちうち刑」は廃止されたが、代わりに思想を弾圧する「治安維持法」を新しくつくった。国を奪われ、生活を失った人々が自由を求め独立運動に参加すれば「罪人」として逮捕されるのである。
彼らが収監されたのが西大門刑務所だ。3.1独立運動当時、西大門刑務所の収監者数は4万6948人にのぼり、負傷者は1万5961人、死亡者は7509人に達したという記録が残されている。
日帝は朝鮮を「文明化」させ日本と同じ水準にしてやると「同化」政策推進を宣伝した。しかし実情は植民統治に従う二等三等国民を作るための差別政策だった。植民統治を円滑にするために日帝は植民統治の協力者を育て上げる政策を広げた。日帝に絶対忠誠を誓う者たちを発掘し官僚に登用し「秀才教育」という名前で親日知識人を育て親日世論を作り独立運動家をてなずけ主張を変えさせた。日帝の「文化政治」は民族解放運動陣営を分裂させる手段だった。
引用:植民地歴史博物館展示
親日派を養成するための各種マニュアルが存在する。
◆日本に絶対忠誠を誓う者を官吏として選ぶ
◆身命をなげうつ親日的人物を探して親日団体を作る
◆各種宗教団体の最高指導者を親日派にする
◆秀才教育の名の下、親日的知識人を大量に養成する。両班(ヤンバン)、儒生のうち仕事のない者に生活の保障をしてやり、宣伝、偵察に利用する
◆朝鮮の富豪に日本の資本を連携させるようにして日本側に引き入れる
◆民間の有志に相当な便宜と援助をはかり、農村の指導に努力させる
齊藤實(第三・五代朝鮮総督 )朝鮮民族運動に対する対策,1921引用:植民地歴史博物館展示
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植民地歴史博物館(2)
2部 日帝の侵略戦争、韓半島に何が起きたのか 1937年 日帝は日中戦争を始め、自国民のみならず、朝鮮の国民までを総動員しはじめた。侵略戦争に自発的に協力させるため「皇国臣民化政策」を押し付けた。 皇 ...
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